2014年5月24日土曜日

三手先の変遷

(追記です)

図版の建造物は、
薬師寺東塔は天平2年(730年)
醍醐寺五重塔は天暦六年(952年)
平等院鳳凰堂は天喜元年(1053年)
常楽寺三重塔は応永七年(1400年)
の完成です。
日本の近代的な建築史研究は明治時代中頃からの100年を越える積み重ねがありますが、ブログで紹介しているのは、定説に近い学説です。(出典は日本建築学会篇『日本建築史図集』の解説で、この部分の解説の参考文献は、『社寺建築の技術—中世を主とした歴史・技法・意匠』(大森健二)

進化というのかどうかはわかりませんが、三手先の変遷として
薬師寺東塔(解体修理中)
醍醐寺五重塔
平等院鳳凰堂
とあげられます。

薬師寺東塔の場合、「斗の位置ガ自由に決められ」というのは、三手先目の組物(丸桁)の出の位置が自由(制約がない)ということです。(部材(木材)の大きさによる制約はありますが)
これが、醍醐寺五重塔では、隅部分で二手目の秤肘木を伸ばすようにしていて、その先に置かれる斗が三手先目の枠肘木と交差し合う状態となるので、(三手目の)位置を調節する必要がでてきます。
さらに時代が降り平等院鳳凰堂では、手先間隔を完数(切りのよい数値)として均等になるよう調整されているので、二手目も三手目も肘木は隅の平組物と一体となっていて、二手目の伸ばした肘木の上に置かれる斗は三手目の肘木を受けるようになっています。(醍醐寺五重塔では、二手と三手の間隔は尾垂木との関係で決められています)
以降、和洋三手先は全てこの形式を踏襲していて、これをもって三手先の形式の完成と言うようです。

2 件のコメント:

  1. 追記ありがとうございました。
    隅が複雑になると、お互いに干渉が起こってしまうのですね。
    構造としては強固になっているのでしょうけれど。
    確かに、薬師寺東塔の隅はかなり簡素な印象を受けます。

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    1. こんにちは。
      趣味の範囲を逸脱かもですが、
      ある意味、構造的には自由度が増して
      いろいろ調整することが可能になってきた
      という側面もあります。
      また、社会制度や生産様式なども関連するので
      やり始めると終わりません…^^;

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